富士山行記7【下山】
~~死線を超えて・・・~~
2008年8月9日 正午過ぎ 富士山頂にて
四軒ある山小屋の一つ扇屋
四軒のうち一番控えめな店構えかもしれない。
外では雷鳴が鳴り響き、安全のため店先の戸は完全に閉められている。
細長く奥まった縦長の店内には、父と息子以外は居ない。
正確には従業員さんを除いては、他の休憩客は居ない。
従業員さんらは、悪天候による客の減少の影響からか、早めの昼休憩もかねて食事の準備をしていた。
雷鳴が轟くたび、「まだ近いなぁ」とか「今日も荒れてるねぇ」と言った声が聞こえてくる。
山頂で働く人々にすると、こういった自然現象と真正面から向き合って生活をしているわけで、それ相応の心構えは万全なのだろう。
ど素人の我々には、危険性や状況変化の予測などはまったく見当がつかない。
そういった会話の中から、少しでも有効な情報が得られないか、やや聞き耳を立てながら、天候が落ち着くのをじっと待っていた。
しかし、良くなるどころかやや悪化する傾向にある。このままでは、郵便局には行けないかな・・・。
そのお店で買い物をすると、持ち合わせたハガキを郵便局へ届けてくれるらしい。
ただ、天候によって当日になるか翌日になるか確証は持てない、という。
郵便局備え付けのスタンプ印も押す事は出来ない。その代わり、その店にあるスタンプ印は押してくれるようだ。
天候予測のエキスパートである従業員さんへ天候のことを尋ね、郵便局へ行けるかどうか聞いたとしても、おそらく「No」の答えが返ってくるだろう。どう考えても危険な天候であることに間違いない。
自分自身へのこだわりが、それとも安全性か、安易な方法か。
こだわりに固執する自分は、どうしても自分の足で郵便局まで行きたかった。
3年前に訪れた記憶では、ココからそれほど遠くないと錯覚した記憶が残っていた。
ほどなくして、「お世話になりました」とお店の人に挨拶をし、息子と一緒に店を出た。
息子は自分のお土産を買ったが、まだ友達のお土産を買ってはいなかった。
そこで、こう提案した。
父「父ちゃんは、ちょっとそこの郵便局まで行ってハガキ出してくるから、お前は全部のお店を見に行って好きなものを選んでるか?それとも一緒に行くか?」
子「お店見にいって、決めてる。それで、ココで待ってる。」
幾ばくかの不安があったが、いざとなれば店に避難できるし、それほど遠くも無いから何とかなるだろう。
父「じゃ、ちょっと別々だ。大丈夫か?」
子「うん、わかった」
息子は待ってましたとばかりに、さっさと好きなお店に行ってしまった。念願の目的だ。そりゃはやる気持ちは抑えきれないだろう。
自分は自分で、最後の大仕事、山頂郵便局までの往復の道のりに決死の覚悟で挑む。
カミナリは遠くでゴロゴロ鳴っているし、雲も少し薄い感じもする。
なんとか天気もってくれ!(-m-)” パンパン
願いを込めて、一か八か、外輪山を進み始めた。灰色の空の下、風の音は優しいとは言えない。
立ち込める冷たい蒸気が横切るたびに、雲の真ん中に居ることに気付かせられる。
ザックは店先に残し、今までよりも身軽だ。
息を切らしながらも足早に、気持ちと共に先へ先へと向かう。
記憶では、その目の前の頂を越えればすぐに見えてくるはず・・・
少し回復した体力を徐々に消費し、頂上からまた小高い丘のような頂きをさらに目指す。
あそこを超えれば、あそこまで行けば・・・
が、全然見当違いだった。
開けた景色からは、さらなるアップダウンが続く登山道だった。
全くもって郵便局の建物など見えない。
アレー?おかしいなぁ・・・(・・?
どんどん焦る気持ち。薄い空気。轟く雷鳴。打ちつける雨。また霰も含んできた。
いつ落雷するか分らない恐れと不安。はっきり言って生きた心地がしない。
登山者はチラホラ居る。
みんな決死の覚悟で歩いているのか、落ちないと過信して歩いているのか定かではないが、緊張感は共有できた。
最後の丘を登り再び視界が開けた。
ほぼ平らな直線の道、そのずっと先には未だ建物の形跡は見当たらない・・・
胸のドキドキがさらに早くなる。切れる息を繰り返し補いながら、早足で進む。
せいぜい10分と思っていた距離が、すでに15分も歩いている。
ここで引き返しても息子に会えるのは15分後。息子にしてみれば30分も独りで山頂に取り残されたままだ。
また、悪い事をした。かわいそうな事をしてしまったと後悔の念に押される。
しかし、もう少し、ここまで来たのだから、きっとあと少しだ。
不安もより高まり、平らな道が終わるところに差し掛かった。
その視界の先には、5mほど下ってまた5mほど登るという窪んだ場所が広がっていた。
郵便局はその先にあった。
あぁ・・・もうちょっと距離があったか、仕方が無いココまできたのだから最後まで諦めないで突き進んでしまおう。
カミナリに打たれる不安よりも、息子を取り残してきた不安の方に気持ちを傾けながら、息を整え郵便局まで必死に歩いた。
遂に郵便局まで到達できた。
おもむろに中に入り、事務的な手つきで、持参したハガキにスタンプ印を押す。
決死の覚悟で来たにもかかわらず、あまりにも事務的に押す自分の行動が少し可笑しく思えた。
しかし、ゆっくりしっかりと一つ一つ丁寧に。ずれたり霞んだりしないように。
これはもう完全に職業病だ。
「お願いします。」と窓口の局員さんへ手渡しをした。
石積の郵便局は入り口が狭い。
中も、もちろん狭いのだが・・・。
他の登山者も参拝している浅間大社。
こちらもやはり石積だ。屋根は風に吹き飛ばされないように石が乗せられている。
あとは無事戻れる事、無事に下山することだけだ。やっと肩の荷が下りた。
本当ならば剣ヶ峯に行きたかったが、危険性が伴うと共にこれ以上の遅延は避けるべく、さすがにそれは選択しなかった。
浅間大社で賽銭を入れ、下山の無事と家族の健康、試験の成功を祈り、もときた道を歩いた。
時間は1時半を回っていた。
風は横殴りで吹き付ける。雷鳴の轟きは休むことを知らない。下へ向かって稲妻が走るのも見えた。
ココで雷に打たれたらそれまでだ。神様が自分を見極めたという事と受け止めよう。
大げさに言えば、死ぬ覚悟だ。決して命を粗末にしているわけではない。
怖さもあり、後悔もあり、申し訳なさもある。
生きていることが当たり前では気づかない事が、死を意識した瞬間に気づく。
親、妻、子供、親しい友人達、多くの人に悲しい思いをさせてしまうんだろうなぁと。
はたまた、そんな事は自分の思いあがりで、悲しんでもらえる事が出来るだろうか?
自分とは周りの方々にとってどれだけの存在だったのだろうか?
やり残したこと、やり遂げたかったこと、様々な想いがこみ上げる。
堂々巡りの思考の中、結局立ち戻るのは今現在だった。
生きているのは過去でも未来でもない。今この瞬間だった。
命とは自分自身だけのものではなく、周りの人々と共存している事。
残された遺族や友人達の深い悲しみは想像以上のショックだ。
やはり「生かされている」ことを改めて実感し、粗末にせず、過信せず、大切にしていかねばならぬと、気付く瞬間でもあった。
僅か往復40分。されど40分。短いと言えば短い。長いと言えば長い。
ずっと待っていた息子にすれば恐ろしく長く、不安な時間だったことだろう。
試験時間ならばあっという間だ。
時間と言うのは、過ぎた過去の記憶でしかないのかもしれない。
その幅の感じ方は感覚であり、捉え方次第なのだろう。
なんとか無事に元の山頂山小屋に戻る事が出来た。
すると・・・
息子が泣きながら、おばちゃんになだめられていた。
すぐ帰ってくるはずが、なかなか帰って来ない父ちゃん、相当不安だった事だろう。
泣き声で声にならない、むせび泣く息子をギュッと抱きしめた。
嗚咽しながらやっとの事で言葉を吐き出す。
子「と・・とう・とうちゃん・・が、がっ・・かえっ・・帰って・・こ・・こないから・・」
エ゛ッエ゛ッエ゛ッ(/_<。)
またしても申し訳ないことをさせてしまったと、心から謝る。
安易な選択から、子供にとって驚異的な不安を与えてしまう結果となってしまったことに。
よしよし、と背中をさすりなだめる事しか出来ない。
息子にとって唯一頼れる存在が、父親である自分なのだ。
息子にとって頼れる存在だったかどうか、自分では自信など無いが、それでも絶対的な存在だったのだ。
自分自身が決して独りではないと気付く。
息子とまた出会えて良かった。感動だ、心から。
今はまだ自立の時期ではない。しっかりと受け止め守っていくのが親の役目だ。
しかし何時か自立するときが来る。
自立と自律。今日のこの経験がトラウマにならないことを祈る。
幸い、後日談としては、今では全くもって元気に普段どおり遊びまわっている。
このときの経験は、辛く楽しい自分の勲章話として良い方向で記憶に残っているようだ。
突然、さらに天候が悪化した。
ザーというドシャ降りとともに雷鳴も一層大きくなった。
外に居た登山者達も一斉に山小屋へ非難を始めた。自分達もすぐに最寄りの山小屋の中へ入った。
時間は午後1時40分。標高3700m地点の富士山の山頂での出来事だった。
山小屋の中では非難した登山者でごった返している。ぎゅうぎゅうでビショビショになったレインコートを脱いだり、休憩しながら食事している人たち。
落雷の危険から電気は一切つけていない。昼間といっても窓の少ない山小屋の中は薄暗いままだ。
数m先にいる別の登山者の顔すらよく確認できない。
店入口の引戸の硝子の向こうには、真っ白に明るいけれども透明性のない空間があるのみだ。
外からは打ち付ける雨風の音、雷の轟音が続く。
山小屋の従業員さんたちがしきりに言い続ける。
「詰めて座ってくださーい」
「カッパは脱いでくださいねー」
「携帯電話の電源はすぐ切ってくださいねー、雷落ちますよー」
こんな事は日常茶飯事だ、とも聞こえる口調で繰り返している。
なかば面倒くさそうに、母親の小言のような口調だ。
しかし逆にそういう危機感から離れた口調が、かえって非日常的な境遇の不安から開放させてくれる。
そんなに大したことではないのかな、時間が経てばすぐ収まる一過性の天候かもしれない。
焦って下山しても危険だし、ココにいれば当分安全だろうからすこしジッとしていよう。
土間の入り口ような長い座席が縦長におかれ、いくつか並んでいる。
ぎゅうぎゅうにひしめき合った人達は各々不安と安堵の繰り返しで会話をしている。
息子はまた眠っていた。どこでもすぐに眠れる状態で育ってくれて助かる。
神経質に育っていたら、今頃ここにいることが出来ただろうか?
大雑把で天真爛漫なB型に救われた。たとえ日常でやんちゃなことがあろうと、生きていく強さはこういうことをいうのかもしれない。
もって生まれる天性のものか、はたまた育つ環境のものか・・・
いずれにせよ、今はそっと寝かせてあげられる状態がとても幸せな時間だった。
自分も座った体勢のまま、息子を膝の上に乗せて少しウトウトした。
下山の翌日に知った事だが、当日2008年8月9日、午後1時50分頃 富士宮口で下山中の一人が落雷で命を落とした。
夏の行楽の悲惨な事故として報道された。
わざわざ危険な所や危険な事を行うべきではないと非難する声は、もちろんある。
不運な事故と言えばそれまでだが、同じ境遇に居合わせた者として、複雑な心境と共に心からご冥福を祈る。
生と死とは常に隣りあわせであり、決して遮る事も、逃れる事も出来ない。受け入れるしかない事実なのだ。
改めて命を大切にする気持ちを持つ、自分だけでなく世界の全てに対しても。
約一時間経った。午後2時半過ぎ。
一向に天候が回復する兆しは無い。
息子はまだ熟睡していた。少しは体力が回復できた頃だろうか?
あるツアーの案内人が「○○○の参加者は下山しまーす。準備してくださーい。」と言った。
ごった返す山小屋の中で人の移動が起きてきた。
このまま居ても同じなら、下山するしかないかな・・・。団体で降りるなら気持ちも和らぐし・・・
少し覚悟を決めていた頃だった。
さっそく友達へのお土産をそのお店で購入し、最後の目的を果たした。
いよいよ本当の正念場、下山をする時が来た。
もちろん天候が回復したわけではない。まだ引き続き、雨と雷は鳴り響いているままだ。
改めてレインコートを着込み寒さ対策も施した。
ザックを背負い、山小屋の入り口を出た途端、唖然とするような光景が目に広がった。
白い・・・
真っ白だ・・・
うっすら、と言うよりは明らかに厚く、雪のような白い地面が踏みしめられた形跡を残しつつ満遍なく広がっていた。
霰(あられ)が雹(ひょう)に変わり、降り積もったようだった。
今現在は霰も雹も降っていなく、やや大粒の雨と変わっていた。
気温は相当低い。おそらく一気に冬並みになっていたほどだろう。
悠長にプロトレックで気温を測る余裕などもなく、すぐにでも下山して暖かい環境に戻りたくなった。
トイレに寄ってから、ツアー団体の後にくっついて一緒に下って行った。
靴も軍手もびしょ濡れで、防寒の役割など当に失っている。
子供は足がかなり冷たくなってすぐに歩けなくなった。
再び、おんぶをし気力を振り絞って下山を始めた。
数分下り始めてから、ひとつ重大なことを思い出した。
頂上での記念写真を一枚もとっていない・・・
ココまで来て・・・
頭の中がグルグル回る。
戻るべきか諦めてすぐにでも下山すべきか・・・
空では雷が鳴っている、すぐにでも下山しないと危険であることには間違いない。
しかし選択したのは・・・子供を背負ったまま、また登ったのだ。
「えーい、考えてる間があるなら戻っちゃえ!こうなったら勢いだ!」
間違いだらけの選択ばかりしてきた登山
すべきではない、してはいけない選択肢ばかりを選んできた。
ココまで来ればもう一つの間違い選択くらいどうってことなくなる。
むしろ、後悔だけはしたくなかった。心に焼き付けるとともに、形に残せるものが欲しかった。
幸い下り始めてまだほんの数分だった事もあり、すぐに山頂に戻れた。
まだ残っている登山者にカメラのシャッターを頼む。
快く引き受けてくれて、決死の記念写真を撮ることに成功した。
これで全ての目的は達成した。あとは無事下山をするだけだ。
下山は登りと比べ物にならないほど時間がかからない。
足腰に来る負担は別として、普通の大人で3時間程度、早い人ではその半分で下りきる。
今の時間は2時50分、遅くとも日が暮れる前には下山できそうだ。
今思えば、既にパニック状態になっていたのだ。
思わぬ自然環境の変動に対応できず、適切な判断が出来ていない。
とにかく「下山したい」と思うだけだった。そして、その先の長さに絶望もしていた。
このまま本当に下り続けられるだろうか?
不安と恐怖に追い詰められ、盲目的にひたすら歩き続ける。
子供をおぶって下る富士山の下山は想像以上にきつい。
登りで使い切った筋力が限界を超え、しんしんと力が抜けてプルプルと震える。
担ぐ手の力も寒さで感覚がほとんど無い。
こういった状況からどんどんパニック状態に陥っていく。
冷静にしているつもりでも、本当に適正な判断が出来ないのだ。
下山に固執する。
安全を確保することが思いつかない。
なぜ、途中の山小屋に泊まらなかったのか?
なぜ、下山する事に固執したのか?
その理由は、翌日に予定もあったこと、何が何でも帰りたいという気持ちからだった。
遭難する理由はおそらくこういったパニック状態が重なることが原因だろうと思った。
予算的に宿泊が無理だったわけではない。
さすがに八合目の山小屋では休憩をしようと思っていた。
しかし、現実とはそううまく行かなかったのだ。宿泊準備のため、まんまと休憩を断られてしまった。
力なく、途方に暮れる・・・
風は冷たく、体温と体力を益々奪っていく。
雨も無常に打ちつけ、雷鳴もまだ鳴り響いている。風のヒュウヒュウという音が悪戯に通り過ぎる。
陽射しの下ではあれほど心地よかった風が、機嫌を損ね冷淡に攻撃をしてくるかの如く。
息子は泣きながら
「寒い・・・寒い・・・」と歯をガチガチさせている。
自分の体力も限界でこれ以上おんぶする力もない。
本当に、絶望だった・・・
息子の唇がどんどん色彩を失う。
抱きついて擦りあっても全く暖まらない。
力ない息子に、どうすることも出来ない無力さ。
気力を振り絞って、肩車をしながら一歩一歩フラフラと、ヨロヨロと下っていく。
何が何でも下るしかないんだ。自分しか居ないんだ。息子を守るのは自分しか居ない。
絶対に下ってやる!
強く思う気持ちが続くのはほんの一瞬。
すぐに身体が悲鳴をあげる・・・
とにかくゆっくりと、ゆっくりとしか下れないのだ。
数歩歩いては休み、数歩歩いては休み。
時には息子自身にも頑張って歩いてもらいながら。
徐々に少しずつ少しずつ下っていく。
息子は歩くたびに泣き出し
「もう、歩けない~・・・寒い・・・・冷たい・・・」
限界を通り越し、絶望の中、希望のかけらも感じられない。
最悪の状況を想像する。
本当に、寒さと疲労により息子が死んでしまうのではないかと思った。
今すぐでなくとも、下山後に高熱を出して意識不明になるとか、仮死状態になってしまわないだろうか?
恐怖という感情は、そうそう長く感じるものではないかもしれない。
誰しもが、一度や二度は一瞬ゾクッとか、ヒヤッしたことはあるかもしれない。
しかし、息子の死とは、今この瞬間からずっと続く恐怖だった。
そう考えた時、カミさんや他の人の悲しむ顔が浮かんできた。
そして自分自身には非難の目線が突きつけられた。
絶対にそれだけはあってはならない。
自分自身は体力こそ限界だったが、気力だけはまだ持ち続けられた。
これこそが、登りのときとはまた違う、真の愛情なんだと思った。
まさに死に物狂いだ。絶対に生きて、無事に下山しなければ・・・
思えばこの時も、また途中の山小屋に宿泊を尋ねる、という選択が思いつかないくらいパニック状態だったのだ。
現実にまだまだ道のりは遠く、時間を考えれば考えるほど途方に暮れた。
寒さも厳しく、歩かなければ凍えてしまう。
歩く体力は寒さによってむしりとられていく。
もうろうとした意識の中、ザクザクと音を立てて進むのみが今出来る唯一のことだった。
とにかく意地だ。
歯を食いしばり、力の限り歩き続ける。
まだ標高は3000m超の高所。時間だけは着実に過ぎていく。気付けば16:30をまわっていた。
登山開始から16時間、ここまで絶体絶命の状態に陥るとは微塵にも思わなかった。
試練と言うには厳しすぎるくらいの大自然の仕打ちだった。
何度も何度も息子に謝り続け、「頑張ろう」と励まし続け、悔やんでも悔やみきれない状態。
涙も枯れ果てるほどの気持ちとはこのことを言うのだろう。
不安と恐怖と後悔というマイナス面を抱えたまま、まだまだ下山は続く長き道のりであった。
死線を越えて・・・帰るべき場所を目指して・・・
後日報道された富士山情報に
甲府地方気象台は27日、富士山で8月9日に観測された冠雪が今年の初冠雪だったと発表した。
観測を始めた1894年以降では最も早く、1914年に記録した8月12日を、94年ぶりに更新した。また、昨年より58日、平年と比べて53日早かった。
富士山では、山頂の1日の平均気温が年間で最も高くなった日以降、甲府市にある同気象台から初めて冠雪を目視で確認できたときを初冠雪としている。今年は7月21日の平均気温が10・6度で最も高く、今後も上回る見込みがないという。
山頂の山小屋の従業員によると、9日は山頂から8合目にかけてひょうが降り、3センチほど積もったがすぐに溶けてしまったという。
(2008年8月27日21時22分 読売新聞)
ノリに乗ってこの山行記が大げさな文章表現になっているのは重々承知だけれども、
後日報道された94年ぶりの記録更新に居合わせた偶然に、どこかドラマを感じてしまう現実だった。
本当に、二人にとっては過酷だったのだから・・・
つづく
次回、無事下山となるか?
“感じる、命の温度”
じんさん、おはようございます
息子さんが泣いたとこ思わずその状況を想像してぽろり・・
私めちゃんこ富士山をなめてました。
その頃下界では、ものすごく暑くるしかったのに・・
山っていろんな表情があるんですね。ちゃんと学習していかないと
駄目なんですね。いきあたりばったりのO型にはとても勉強になります
すっごく辛かったとおもうけど
息子さんにとってこの富士山の思い出は
きっと素晴らしいものになると思います
投稿: かんころ | 2008年9月 2日 (火) 08時50分
ひぇ〜(^^;
富士山ってやっぱり日本一の山なんだね
私、太古の昔になめくさったまま登って降りてきてました。
たまたま天候がよかったからであって、急に天気がかわったら本当に逃げ場がないよね。
じんさん、文、書くのメチャメチャうまいね!
集中力のない私が引き込まれてるジョ!
税理士にも向いてるけど作家でも絶対成功するジョ!
投稿: じゅん | 2008年9月 2日 (火) 12時17分
じんさん、こんにちは!
息子さん、本当に頑張りましたね~
じんさんの家族に対する気持ちが伝わってきてうるうるしちゃいました(T_T)
じゅんさんも書いてますが、じんさん作家になれますよぉ♪
次回も楽しみです!
投稿: みーみ | 2008年9月 2日 (火) 12時30分
>かんころさん
おはようございます
えー、富士山をめちゃんこなめていたのは自分の方でして・・・
その結果このような仕打ちにあった訳ですわ(笑)
安易な思いつきから安易な行動計画、慣れによる過信
O型同士ですので、思考が似てるかもしれませんね
富士山て登った誰もが良い想い出になれる場所だと思います
投稿: じん | 2008年9月 3日 (水) 05時03分
>じゅんちゃん
天気が良ければ、なめくさっててもOKなんだろうけどね
子連れでこの日の天気はちょっと危険だったな
自分独りならまた違っていたと思うけど
お褒めの言葉、ラッピングして胸にしまっておきます
目指せ印税生活!?
世の中そんなに甘くないからのぅ~
投稿: じん | 2008年9月 3日 (水) 05時06分
>みーみさん
作家って良いですね、響きが
家もない田舎者の自分には恥ずかしいくらいの肩書きです
ま、もし作家デビューしたらサイン本送りますのでもらってください(笑)
あ、送り先知らないや
むしろその前に、デビューできるかどうか・・・
リアルに印税生活って憧れちゃいますねぇ
投稿: じん | 2008年9月 3日 (水) 05時18分